"All of the true things that I am about to tell you are shameless lies"
スーはタピほど泣かない赤ちゃん。
と言うより滅多に泣かない。タピは年中泣いていた。誰もねれないくらい。
スーはおとなしく、まわりを観察し、よく寝て、よくおっぱいも飲む。
3歳になったタピは、スーよりも泣いている。
今まで自分だけに注がれていた注意と愛情がスーにも注がれる。
「マミー、スーにおっぱいあげないで?
僕があげるから、マミーのはあげないで?」
タピが一生懸命スーにおっぱいをあげようとするのを見ると、かわいくて、切ない。
「マミー、遊ぼう。マミーと遊びたいよ。」
なるべく遊ぶのだけど、スーの授乳はしなきゃいけない。遊びは中断される。
そんなこと、今までなかったもんね。
いつも呼ばれたら、タピのところに行ったよね。
がまんさせるよね。ごめんね。
今まで大きな声でお話しして良かったのに、
スーが寝てる時は、小さな声。
ダメなことが増えていく。
意識して、たくさんお話しして、その都度よく説明するようにしてる。
私たちは「声を絶対に荒げない」「リアクトでなくリスポンドする。」
「どんなに幼くても話せばわかる」「赤ちゃん言葉は使わない」「家族の一員として一つ一つ一緒に解決策を話し合い、役割を分担する」というのをなんとなく決めている。特にマイケルと話し合ったわけでないけど、一緒にタピと接する中で、共通して気がけていること。
だけど、最近少しそれが難しく感じる。眠れない夜の後に、すごいテンションでマミー、マミー、とせがまれると疲れてしまってちゃんとお話出来なかったり、「ダメなものはダメ」と言いそうになる。そこで上手く母やマイケルがフォローしてくれる。すごくありがたい。二人の助けが常にある私は本当に恵まれていると思う。
マイケルが帰ってくるとホッとする。タピが母と遊んでいるうちにお昼寝する。
そうやって徐々に私の体も休まって、スーとの空間でのバランスの取り方がみんなわかってくるのかな。
バレンタインは出産の後、初めて外出。最近好きなカフェでマイケルとランチした。
古本屋さんにも行けて、とても楽しいお出かけ。
こうやって徐々に新しい「日常」が始まっていく。
***

誕生日にマイケルからもらった本。ドン・キホーテをまだ読み終わってないから、パラパラ読んでたら、面白くて最後までバーっと読んでしまった。この年代では問題視されなかった差別表現もあったのだけど、それ以上に引き込まれた。「世界の終わり」がテーマのダークユーモアにあふれる作品。あまり風刺が好きじゃない人にはオススメしない。私は結構このタイプは好き。
「人間が滅びる時は、誰かがすごく複雑な計画を持ってするのでなく、人の過ちや愚かな行動が重なって誰も予想していない時に起こるんだよ」そして「バカにつける薬はないのだ」
というホープレスなメッセージを何度も繰り返すストーリー。宗教とサイエンスが対のコンセプトとして提示され、そのどちらにも救いがない。作品の軸となる「つくられた宗教」のボコノニズム。フォーマ(害のない嘘)がその教えのコアになっていて、ボコノニズムの引用があるたびに、吹き出したくなるくらい適当。
「自分がハッピーになる嘘を信じて生きよ」っていう教えを読んだとき、アメリカの大統領の顔が浮かんだ。フェイク、フェイク、フェイクニュース!と叫びながら、自分が嘘を伝え、信じたい人がそれを信じる。
その例は大げさだけど、でも、程度の差さえあれ、人間って、自分にとって都合が良かったり、気持ち良かったり、そういう情報を選択して、信じる動作を繰り返している。
1963年にこの本は出版された。最初に主題となるのは広島への原子爆弾の投下とそれを発明した人とその家族。キューバ危機やベトナム戦争、ケネディの暗殺など当時のアメリカは今と同じ、それ以上に「世界の終わり」を意識させるものがあったのかもしれない、作者が皮肉を通して警鐘を鳴らす私たちの「愚かしさ」は今、変わらず、なのか、当時よりも増して、なのかはわからないけど、身につまされる危機感を感じる。
出産の前後はホルモンバランスが良くなくて情緒不安定になるというけれど、どんな世界をスーとタピは生きていくのだろう、と考えると不安で仕方ない。考えてもどうしようもないし、私は本当に無力なのだけど、スーとタピが笑顔で生きていけますようにと、わがままな願いが滲む夜です。
*今日のブログタイトルはボコノニズムの経典 The Book of Bokonon の引用です。
と言うより滅多に泣かない。タピは年中泣いていた。誰もねれないくらい。
スーはおとなしく、まわりを観察し、よく寝て、よくおっぱいも飲む。
3歳になったタピは、スーよりも泣いている。
今まで自分だけに注がれていた注意と愛情がスーにも注がれる。
「マミー、スーにおっぱいあげないで?
僕があげるから、マミーのはあげないで?」
タピが一生懸命スーにおっぱいをあげようとするのを見ると、かわいくて、切ない。
「マミー、遊ぼう。マミーと遊びたいよ。」
なるべく遊ぶのだけど、スーの授乳はしなきゃいけない。遊びは中断される。
そんなこと、今までなかったもんね。
いつも呼ばれたら、タピのところに行ったよね。
がまんさせるよね。ごめんね。
今まで大きな声でお話しして良かったのに、
スーが寝てる時は、小さな声。
ダメなことが増えていく。
意識して、たくさんお話しして、その都度よく説明するようにしてる。
私たちは「声を絶対に荒げない」「リアクトでなくリスポンドする。」
「どんなに幼くても話せばわかる」「赤ちゃん言葉は使わない」「家族の一員として一つ一つ一緒に解決策を話し合い、役割を分担する」というのをなんとなく決めている。特にマイケルと話し合ったわけでないけど、一緒にタピと接する中で、共通して気がけていること。
だけど、最近少しそれが難しく感じる。眠れない夜の後に、すごいテンションでマミー、マミー、とせがまれると疲れてしまってちゃんとお話出来なかったり、「ダメなものはダメ」と言いそうになる。そこで上手く母やマイケルがフォローしてくれる。すごくありがたい。二人の助けが常にある私は本当に恵まれていると思う。
マイケルが帰ってくるとホッとする。タピが母と遊んでいるうちにお昼寝する。
そうやって徐々に私の体も休まって、スーとの空間でのバランスの取り方がみんなわかってくるのかな。
バレンタインは出産の後、初めて外出。最近好きなカフェでマイケルとランチした。
古本屋さんにも行けて、とても楽しいお出かけ。
こうやって徐々に新しい「日常」が始まっていく。
***

誕生日にマイケルからもらった本。ドン・キホーテをまだ読み終わってないから、パラパラ読んでたら、面白くて最後までバーっと読んでしまった。この年代では問題視されなかった差別表現もあったのだけど、それ以上に引き込まれた。「世界の終わり」がテーマのダークユーモアにあふれる作品。あまり風刺が好きじゃない人にはオススメしない。私は結構このタイプは好き。
「人間が滅びる時は、誰かがすごく複雑な計画を持ってするのでなく、人の過ちや愚かな行動が重なって誰も予想していない時に起こるんだよ」そして「バカにつける薬はないのだ」
というホープレスなメッセージを何度も繰り返すストーリー。宗教とサイエンスが対のコンセプトとして提示され、そのどちらにも救いがない。作品の軸となる「つくられた宗教」のボコノニズム。フォーマ(害のない嘘)がその教えのコアになっていて、ボコノニズムの引用があるたびに、吹き出したくなるくらい適当。
「自分がハッピーになる嘘を信じて生きよ」っていう教えを読んだとき、アメリカの大統領の顔が浮かんだ。フェイク、フェイク、フェイクニュース!と叫びながら、自分が嘘を伝え、信じたい人がそれを信じる。
その例は大げさだけど、でも、程度の差さえあれ、人間って、自分にとって都合が良かったり、気持ち良かったり、そういう情報を選択して、信じる動作を繰り返している。
1963年にこの本は出版された。最初に主題となるのは広島への原子爆弾の投下とそれを発明した人とその家族。キューバ危機やベトナム戦争、ケネディの暗殺など当時のアメリカは今と同じ、それ以上に「世界の終わり」を意識させるものがあったのかもしれない、作者が皮肉を通して警鐘を鳴らす私たちの「愚かしさ」は今、変わらず、なのか、当時よりも増して、なのかはわからないけど、身につまされる危機感を感じる。
出産の前後はホルモンバランスが良くなくて情緒不安定になるというけれど、どんな世界をスーとタピは生きていくのだろう、と考えると不安で仕方ない。考えてもどうしようもないし、私は本当に無力なのだけど、スーとタピが笑顔で生きていけますようにと、わがままな願いが滲む夜です。
*今日のブログタイトルはボコノニズムの経典 The Book of Bokonon の引用です。
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