しくじり

友人と街市に行く。毎週行くのだけれど、そこで食べたことのない野菜と魚を買うことにしている。今の友人たちとはなんだかずっと知り合いだったような感じで、不思議なくらい落ち着くし気を使わなくていい。魚屋のおじさんにも顔を覚えてもらい、買う魚の漢字を紙に書いてくれるようになった。今週買ったのは、クロホシフエダイ(火点)。先週はミナミコノシロ(馬友魚)。


今年の初夏から、広東語の先生にプレゼントしてもらった日記帳に、「香港食べ物絵日記」をつけているのだけれど、最近はそこに魚の調理法も加わった。広東語で書いているので、先生に毎週添削をしてもらうのだけれど、魚のレシピはけっこう彼も興味があるようでいろいろ話が広がる。ママ友のひとりは、母親が「上船人」と呼ばれる船上で生活をしていた人で、釣りで生計を立てており、幼いときは船で生活していたそうで、魚とその調理法にすこぶる明るい。釣りについても、知識が深く、いろいろと教えてもらっている。


もうひとりのママ友は、「いくみといっしょのときは絶対に英語を使わない」というルールを厳守し、広東語のみで話してくれる。最近では、テキストメッセージでは漢字が分かって簡単だという理由と、わたしのリスニングの量が足りていないという悩みを解決する形で、すべてボイスメッセージを送ってくれるようになった。もちろんわたしも広東語のボイスメッセージで返す。そのたびにきちんとコメントしてくれる。めちゃめちゃやさしい。本職の先生の地位を脅かすほどの高い質の指導法で、熱心に教えてくれる。ほんとにありがたい。


先日、ミシェルの本屋さんで、香港の管弦楽団の歴史について研究している独立リサーチャーと話しこんだ。主に彼の研究についてだったのだけれど、彼はマレーシアの女性がパートナーだそうで、彼女はふたつの中国語の「方言」を含む6言語を操るそうだ。その彼女に、頭の中で考えるときにはどの言語を使っているのか尋ねたら、2,3個の言語を同時に使用しているという答えが返ってきて、広東語単一言語が母国語である彼はまったく感覚的に理解できなかったと言っていた。わたしは英語圏での生活が長いので、思考するときは英語と日本語が混じっているのだけれど、そこに色々な言語が混じる感覚がきちんとある(ぼんやりとではなく)というのはとても興味深い。また、広東語話者が漢字を読む場合と、普通語話者が漢字を読む場合に感情的な差異があるのか、など香港に住むうえで気になっていた言語的なことをたくさん聞けて、楽しかった。

  

ガザで人が殺されている。書こうと思っても言葉にならない。何をしていてもずっと頭に張り付いている。マーガレット・アトウッドが「戦争とは、言葉が失敗したときに起こるものだ」と書いた。わたしはそれが感覚的に分からなかった。戦争が起こることをコミュニケーション不足、言葉の限界のせいにするのは短絡的だと思った。ふと思い出したその言葉の原文をもう一度見てみる。

 

“War is what happens when language fails”

 

 

戦争を単一の「イベント」ではなく、連続して起こっている状況の重なりであり、ひとつひとつの状況が常に起こっている、重ねて起こり続けているのと考えるのであれば、わたしたちの言語はしくじり続けている。だけどやっぱり、しくじり続けているのは言語ではなくて、言葉は失われ、奪われ、それを発する人もろとも焼き尽くされる。とも考えられて、

 

だけどやっぱり、それを目撃しているわたしたちの言語はしくじっている。少なくともわたしの言葉はしくじり続けている。 どうしてもどうしても言葉では表すことが出来ない。許せない、許せない、許してはいけない、どうしてこうなった

 

何度何をどう書いても、しくじり続けている。

 

わたしには見ることもできない。直視できない。それを受け止める言葉がない。

 

言葉がしくじり続けている。

 

戦争が先か

言葉がしくじるのが先か

しくじり続けられるわたしたちの言葉の責任は

どこか。

そして私たちの言葉のしくじりはいつまで許されて、

いつ焼き消されるのか。

 

だけどやっぱり分からない。

 

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