I miss your face.
パリテロがあった日、眠れなかった。
それはテロのニュースが純粋に怖い、と思ったのもそうだし、
犠牲者の方やその場に居合わせた人たち、住んでる人を思うとどんな気持ちなんだろう。
コンサートを開いたバンドの人たちはどんな気持ちでいるんだろう。
誰がしたんだろう。何があったんだろう。
カナダはどうだろう。シリアでの活動を変えるっていってるし、
それはそのまま実行に移されるのかな?
日本はどうだろう?日本も標的になるのかな?
いろいろ思ったのもそうだし、
そして、いろんなニュースサイトで真っ先にたくさんの人たちが
「難民受け入れをするからこうなるんだ」
とコメントをしていたことにすごく腹が立ったのもひとつ。
カナダのニュースサイトでも、「難民受け入れをやめるべきだ」という書き込みが目立った。
テロを襲った同じバイオレンスを逃れて安全な場所を探す人たちの痛みは
共有されないの?
そのバイオレンスの一因かそれ以上が、「へいわ」に暮らす「ウェスト」にあるとしても?
ジュディス・バトラーが911のあとに、
世界には「グリーバブル・ライフとアングリーバブル・ライフ」、つまり悲しまれる命(もしくは悲しむ価値のある命)があり、そうでない命があると言った。その区別がメディアを通してつけられるとき、「わたしたち」はどちら側で戦争に加担しているのか、無関心を装いながら、気づかないところで心情にフィルターがかかっている、というのがわかる。(バトラーの最新の記事はこちらから:http://www.versobooks.com/blogs/2339-judith-butler-precariousness-and-grievability-when-is-life-grievable)
フェイスブックで多くの人がフランス国旗にプロフィールを変えたとき、
それに意味があるのかと問題提起がなされていたけれど、
そこで私が強く感じたのは、私たちは知らない間に
誰かにより共感し、あるいは味方し、誰かの死の重みを考えなくていいように「慣らされ」、いつの間にか「戦争にいる」ということ。
一つの死が持つ重みがコンテクストで変わり、一人の生が持つ意味も変わる。
それがメディアや言葉を通して作り上げられ、広められる。
顔のない犠牲者。顔のない難民。空爆の被害者はただの数になる。
その顔が見えないまま、様々な思惑の元、重みがコントロールされる。
何も考えなければ、その顔をちゃんと見ようとしなければ、犠牲者や難民はただの言葉にすぎず、そののっぺらぼうに勝手にメディアが表情を描く。
そして私は、間接的に空爆の後ろにいる顔のない加害者にもなってしまうのかもしれない。なっているのかもしれない。
どこの国に住んでいようと、顔の見えない攻撃、怖さに晒される人、その可能性の瀬戸際にある生活がある。
そのバイオレンス、ロスを目にしたときに、感情のみに沿って恐怖や怒り、涙だけの反応にとどめていていいのか。その恐怖に乗っ取られて、偏見に満ちたまま弱い人たちの顔を消す言説に乗っかっていいのか。
Missed faces.
Lost faces.
そこにある痛みは、どこまで共有される?
それはテロのニュースが純粋に怖い、と思ったのもそうだし、
犠牲者の方やその場に居合わせた人たち、住んでる人を思うとどんな気持ちなんだろう。
コンサートを開いたバンドの人たちはどんな気持ちでいるんだろう。
誰がしたんだろう。何があったんだろう。
カナダはどうだろう。シリアでの活動を変えるっていってるし、
それはそのまま実行に移されるのかな?
日本はどうだろう?日本も標的になるのかな?
いろいろ思ったのもそうだし、
そして、いろんなニュースサイトで真っ先にたくさんの人たちが
「難民受け入れをするからこうなるんだ」
とコメントをしていたことにすごく腹が立ったのもひとつ。
カナダのニュースサイトでも、「難民受け入れをやめるべきだ」という書き込みが目立った。
テロを襲った同じバイオレンスを逃れて安全な場所を探す人たちの痛みは
共有されないの?
そのバイオレンスの一因かそれ以上が、「へいわ」に暮らす「ウェスト」にあるとしても?
ジュディス・バトラーが911のあとに、
世界には「グリーバブル・ライフとアングリーバブル・ライフ」、つまり悲しまれる命(もしくは悲しむ価値のある命)があり、そうでない命があると言った。その区別がメディアを通してつけられるとき、「わたしたち」はどちら側で戦争に加担しているのか、無関心を装いながら、気づかないところで心情にフィルターがかかっている、というのがわかる。(バトラーの最新の記事はこちらから:http://www.versobooks.com/blogs/2339-judith-butler-precariousness-and-grievability-when-is-life-grievable)
フェイスブックで多くの人がフランス国旗にプロフィールを変えたとき、
それに意味があるのかと問題提起がなされていたけれど、
そこで私が強く感じたのは、私たちは知らない間に
誰かにより共感し、あるいは味方し、誰かの死の重みを考えなくていいように「慣らされ」、いつの間にか「戦争にいる」ということ。
一つの死が持つ重みがコンテクストで変わり、一人の生が持つ意味も変わる。
それがメディアや言葉を通して作り上げられ、広められる。
顔のない犠牲者。顔のない難民。空爆の被害者はただの数になる。
その顔が見えないまま、様々な思惑の元、重みがコントロールされる。
何も考えなければ、その顔をちゃんと見ようとしなければ、犠牲者や難民はただの言葉にすぎず、そののっぺらぼうに勝手にメディアが表情を描く。
そして私は、間接的に空爆の後ろにいる顔のない加害者にもなってしまうのかもしれない。なっているのかもしれない。
どこの国に住んでいようと、顔の見えない攻撃、怖さに晒される人、その可能性の瀬戸際にある生活がある。
そのバイオレンス、ロスを目にしたときに、感情のみに沿って恐怖や怒り、涙だけの反応にとどめていていいのか。その恐怖に乗っ取られて、偏見に満ちたまま弱い人たちの顔を消す言説に乗っかっていいのか。
Missed faces.
Lost faces.
そこにある痛みは、どこまで共有される?
私のような浅い知識で恐縮ですが・・・・私もFBのプロフィールをトリコロールに変えるのに強い懸念がありました。
返信削除この問題はもっともっともっともっと深くて 到底ワンクリックで表現できる重みのものとは到底思えなかったんです。
勿論なくなってしまった罪のない市民の方々の事を思うと テロ行為は本当に卑劣な行為。ただただ茫然としてしまいます。
でもそれって、一つの側面 その側面とはだいたい経済大国からみた視点で判断されているように思えてならないんです。
私はニュースを読んで二の次に感じたのは「パリにいる 移住してきた方(避難してきた方)またはパリで生まれそだった バックグラウンドがシリアの方々が強い迫害を受けてしまったらどうしよう」という切なさでした。
そして居合わせたカフェでもやはり口々のこのテロニュースを話している方がいてその一人が
「僕はあのFBで国旗に変えるのはどうかと思う。確かに悲惨で許されない事件だった。でもどうしてフランスだけ(先進国だけ、日本もその中に入っていますよね Pray For Japanです)皆意を表すの?多くの人々がテロや戦争で世界中犠牲になっているのに?じゃ、ブラジルは?じゃアフガニスタンは?」という声が聞こえてきました。
本当にその通りだと思います
私たちは「情報メディアから流れてくるたった一側面の顔」で感情に流されてしまう。
本当に難しいです。こういう問題は本当に難しい。
私のブログにも先日コリアンfoodを紹介したところ「トロントにも従軍慰安婦の石碑が立つんだぞ。日本人として悠長にコリアンfoodなど食べていていいか」という内容のコメントがありました。
そんな私のチンケなブログの小さな「コメント」という窓で文章のリレーを交わすほど浅い内容ではありません。
人種 文化 戦争 宗教軋轢・・・・・・人類始まって未だ解決できていない大きな課題ですよね。
色々今気持ちもセンシティブな状態のきつねさんだからコメントを控えようかと考えましたが、一人で考え混むよりも 似たような考えの人もたくさんいると目で見えた方が不安が少しでも軽減できるかな?と思った次第です。
こういうセンシティブな内容故、もし私の論でコメント欄が炎上するような気配があれば私のコメント、即刻削除してください!!
私は亡くなった方たち そのご家族 差別に苦しむ人 パリに住む方の達に向かって祈ります。
かなさん、コメントをありがとうございます。
削除私はけっこういろんなことをこのブログに書くようにしているので、センシティブなことでも、コメントいただけるととてもうれしいです。
フェイスブックの国旗プロフィールは、変えている人たちがどんな気持ちなのか私も察しがつかなくて。そしてやっぱりアメリカ寄りの国に好意的な報道がなされるのは、世の常なんだなあと思いますね。かなさんの指摘どおり、同じ地震がおこっても、地域やそこに住む人によって全く違う報道がなされますよね。
こういう問題提起がなされ、多くの人が自分の立ち位置から考え、既存の様々なもののあり方を疑う、問題があれば自分から疑問を発信してみることが大事なのかなあと考えたりします。
ブログに韓国料理を紹介してそんなコメントがくるんですね。苦笑 私はこういう「日本人として」っていう変なナショナリズム、全然正直わからないんですよね。何人でも、まず人として筋を通して生きていきたいし、国籍で何かがばこーんって変わるってよくわからない感覚だから。
一番思うのが、大人の作った醜い絵を次の世代に引き継いで行きたくないということ。このテロで難民やムスリムの人を排斥するような負の連鎖には絶対つなげちゃいけないということ。そういうのを踏まえて、トロントでもできること、例えば家庭用品をシリア難民で受け入れられた家庭に寄付するとか、そういう小さなことからでもサポートを示していけたらと思います。
自分の心のホームグラウンドはしっかり守りながら、いろいろ考えていきたいですね。
キツネさんのお返事を読んで思い出したことがあります。
返信削除宇宙飛行士の方々の話し。初めは「Mr. Miss.America」と呼びあってたりしてたらしいんですがどんどん地球から遠くなり宇宙で過ごしていくと、自分らが掲げている国境という概念がなくなっていく。地球人としての共同作業になっていく。との事。
キツネかんが仰る通り〇〇人だから。ではなく一人の生を受けた人間として実直に生きていきたいです。