formaldehyde
忘れないうちに書いておかなくちゃ。
オルガ・トカルチュクの"flights"。旅についての本なのかと思いきや、人の肉体を保存する方法をめぐる細部に渡る記述や、好奇心のための博物館に展示されている人体(本物)の娘の声、それから、記憶を通して過去へ旅するというテーマ、自分の居場所を捨て同じ町のサブウェイをホームレスになってさまよう人の話など、様々な短編によって織り成された400ページだった。
でも最後に、「ライティング」に全てをつなげ、「書くことが体をホルマリン漬けにする行為」というアイディアにたどり着いた時、今まで考えたことのなかったイメージが頭にうかぶ。私のクローゼットに入っている何冊ものジャーナルは、私の過去の、出会った人たちの、思い浮かんだアイディアのホルマリン漬け?そう思うと、書くことがとてもグロテスクで残酷なことにすら感じられる。

そういう話をマイケルにしていたら、ミシェル・フーコーの"Writing Begins After Death"を読んでみたらいいよ、とインタビュー本を渡してくれた。そこには、書くものを死んだものとみなしてからライティングのプロセスが始まる、すなわち、書くことは書く対象との距離をとる、距離をはかるプロセスなのだとフーコーの態度が書いてあり、医学的バックグラウンドを持つ彼は、白い紙を体だと思うのだと、そこにどんどんメスでもって解剖していくのだと、説明していた。
カナダのファーストネーションの口承で伝えられる物語を「書いて記録する」ことがタブーとされるのは、この考え方、書くことでそのオーガニックな存在のあり方を根本から変えてしまう、言語がその周りの環境や語る人たちの知恵の変化の中で自由に変わっていく性質を殺してしまう、そういう弊害によるものだと連想した。
フーコーは、書くことで話すことでは得られない言語の深淵にたどり着くことができるともそのインタビューで議論するのだけど、私はそこに優劣はなく、違う意味での深淵への至り方、追求が可能なのだと思う。また、フーコーのいう「ライティング」はここでは物語を作ることとは違い、現象を分析すること、議論することを主に話していて、とかルチュクのジャーナリングに対するコメントも、旅の先々で周りにいる人を観察するコンテクストにおいて語られていた。(でも彼女は物語を創造する人でもあるのでそこに本当の意味で線引きがあるのかはわからない)今まで「書くこと」に付随するコロニアリズムについて考えたことがなかったけど、その視点はもっと掘り下げて考えてみたいなと思った。
また、それを考えた後でトカルチュクのこの作品をもう一度読みたい。
***

トロントに母が来た。出産前後のお手伝いに。とても心強い。
まだ時差ぼけがあって、夜中に読んでいたという本を貸してくれた。
大好きな絵本作家の中川さんのエッセイ本。
絵本を大事にタピと今まで過ごしてきたので、共感する部分はとても多かった。特にこの中で紹介されている「小さな猫」という絵本はタピも私も大好き。

母からもたくさん読んでもらったなあ。
最近マイケルがタピに文字を教え出して、タピも楽しそうにしているので、最初にどの本を読んでくれるのかなと楽しみ。
***
今はサリンジャーを読んでいる。母がたくさん小川洋子さんの本を持ってきてくれたので、それを読むのも楽しみ。たくさんクリスマスに詩集をもらったのだけど、それはスーが生まれてから授乳中や寝れない夜のお供に読むのを楽しみにしてる。
オルガ・トカルチュクの"flights"。旅についての本なのかと思いきや、人の肉体を保存する方法をめぐる細部に渡る記述や、好奇心のための博物館に展示されている人体(本物)の娘の声、それから、記憶を通して過去へ旅するというテーマ、自分の居場所を捨て同じ町のサブウェイをホームレスになってさまよう人の話など、様々な短編によって織り成された400ページだった。
でも最後に、「ライティング」に全てをつなげ、「書くことが体をホルマリン漬けにする行為」というアイディアにたどり着いた時、今まで考えたことのなかったイメージが頭にうかぶ。私のクローゼットに入っている何冊ものジャーナルは、私の過去の、出会った人たちの、思い浮かんだアイディアのホルマリン漬け?そう思うと、書くことがとてもグロテスクで残酷なことにすら感じられる。

そういう話をマイケルにしていたら、ミシェル・フーコーの"Writing Begins After Death"を読んでみたらいいよ、とインタビュー本を渡してくれた。そこには、書くものを死んだものとみなしてからライティングのプロセスが始まる、すなわち、書くことは書く対象との距離をとる、距離をはかるプロセスなのだとフーコーの態度が書いてあり、医学的バックグラウンドを持つ彼は、白い紙を体だと思うのだと、そこにどんどんメスでもって解剖していくのだと、説明していた。
カナダのファーストネーションの口承で伝えられる物語を「書いて記録する」ことがタブーとされるのは、この考え方、書くことでそのオーガニックな存在のあり方を根本から変えてしまう、言語がその周りの環境や語る人たちの知恵の変化の中で自由に変わっていく性質を殺してしまう、そういう弊害によるものだと連想した。
フーコーは、書くことで話すことでは得られない言語の深淵にたどり着くことができるともそのインタビューで議論するのだけど、私はそこに優劣はなく、違う意味での深淵への至り方、追求が可能なのだと思う。また、フーコーのいう「ライティング」はここでは物語を作ることとは違い、現象を分析すること、議論することを主に話していて、とかルチュクのジャーナリングに対するコメントも、旅の先々で周りにいる人を観察するコンテクストにおいて語られていた。(でも彼女は物語を創造する人でもあるのでそこに本当の意味で線引きがあるのかはわからない)今まで「書くこと」に付随するコロニアリズムについて考えたことがなかったけど、その視点はもっと掘り下げて考えてみたいなと思った。
また、それを考えた後でトカルチュクのこの作品をもう一度読みたい。
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トロントに母が来た。出産前後のお手伝いに。とても心強い。
まだ時差ぼけがあって、夜中に読んでいたという本を貸してくれた。
大好きな絵本作家の中川さんのエッセイ本。
絵本を大事にタピと今まで過ごしてきたので、共感する部分はとても多かった。特にこの中で紹介されている「小さな猫」という絵本はタピも私も大好き。

母からもたくさん読んでもらったなあ。
最近マイケルがタピに文字を教え出して、タピも楽しそうにしているので、最初にどの本を読んでくれるのかなと楽しみ。
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今はサリンジャーを読んでいる。母がたくさん小川洋子さんの本を持ってきてくれたので、それを読むのも楽しみ。たくさんクリスマスに詩集をもらったのだけど、それはスーが生まれてから授乳中や寝れない夜のお供に読むのを楽しみにしてる。
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