プッシュオーバー
You're such a pushover.
とよくわたしはマイケルに言う。プッシュオーバーというのは、「押しに弱い」ことを表す言葉で、説得されやすかったり、影響を受けやすかったり、だれかの思う通りになりやすい人の形容に使われる。
わたしがマイケルをプッシュオーバーと呼ぶのは、子供たちとのやりとりに限定され、子供にほだされやすいとか、子供のお願いをすぐに聞く癖をからかうときだ。
でもほんとうは、わたしは自分がプッシュオーバーなのかなと最近思っている。というか、少なくともそんな風に思われているのかなと感じることが多くなった。とくに仕事関係で、「優先順位の最後の人」として扱われているような気がする。それは「融通が利く人」「優しい人」「イージーゴーイング」「心が広い」もしくは「細かいことは気にしなそう」とかそういう印象のせいでもあるかと思うけれど、「権力がない(立場が弱い、無名である)」というわたしに付与された「価値」のせいでもあると思う。持ち込みしたときに実際に言われたのは、「岸本さんくらいの訳者になったら企画が通ると思いますよ」。それを言われてもな。
仕事のやり取りで常に「後回しにされている」「後回しにしても大丈夫だと思われている」と感じるのはきつい。リマインダーを送ったり、フォローアップするのも、仕事だからやるけれど、なんだかもうそろそろ疲れてきちゃった。またいっしょにぜひ仕事をしたいと思える人にももちろん出会ってきたけれど、ボランティアで仕事するほど余裕があるわけでもないしな。
一方で、ママ友に接するときは、自分が「後回し」になる前提で連絡を取る。子供のために最初に手を伸ばすし、いつものルティーン通りに自分の両手など自分のためにないのも同然のような時間が続くのがお互いさまだと分かっているからだ。だけどそんな忙しいなかでも、ママ友同士の連絡は速い。効率よく、楽しく、負担をかけず、察し合うけれど相手に過度な期待をしないコミュニケーションは気持ちがいい。カナダでも香港でも、文化的バックグラウンドがまったくちがうママ友ばかりできるので、前提となるマナーや文体などをすっとばして「人同士での絶対に大切な思い合い」を軸に言葉を重ねるからなのか、それともわたしの出会う人がとびきり優しくて素敵なひとばかりなのか、どちらにしろハッピーだ。
わたしはプッシュオーバーではないと思うけれど、プッシュオーバーだと思われている結果、プッシュオーバーのようにふるまい始め、最近ではすっかりプッシュオーバーとして生きている。押されまくってどんどん押しやられていくのだ。
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