三日月

上の子の学校が決まりそう。

英語が指導言語である現地校で、中文の授業だけ広東語で受けられるカリキュラムを提供しているところ。オール広東語だと、わたしも宿題を手伝えないから不安だったので、英語の学校にしぼって情報を集め、校長先生と話がしやすくて、保護者や在校生、卒業生がハッピーな感じの学校に出会えた。

上の子がここに正式に決まれば、合わせて下の子の幼稚園も決まると思う。はあ、やっとここまで来た。長かった……!! そしてわたしも中文の読み書きを習うことにした。今は広東語の会話にしぼって教わっているのだけれど、中文の本が読みたいし、言葉の成り立ちや、名詞と動詞の組み合わせにすごく興味がある。とくに詩を読んでみたい。遠い道のりだということは分かっているけれど、せっかくここにいて、音に囲まれて生活にしているんだもの。


 

最近子供たちにラビンドラナート・タゴールの『三日月』(内山眞理子 訳、未知谷)という詩集を朗読している。子供たちはこの詩集が大好き。わたしも読み返すたびに、幼いころに夢中でファンタジーを読んでいたころのあのわくわくを思い出す。香港前に読んだ時は、マンゴーの木の描写など、あまりぴんと来なかったのだけれど、フィリピン人の友人にたくさんマンゴーをもらうからか(先日は親戚の家のマンゴーをくれた)、この熱くて湿気た空気に身を置いているからか、描写が沁みる。ぐんぐん入ってくる。

翻訳していて、言語を「体感」している「肌感覚で分かる」ことってすごく大事だとわたしは思っているのだけれど(もちろんそれがないと訳せないというわけではない)、香港で暮らすことでまたたくさんの感覚を吸収しているなと感じる。※「英語は話せなくても翻訳はできる」と現代小説の翻訳者が言うのをきくけど、わたしはあまり信じられない。会話文を訳すとき、どうするんだろと正直思う。

広東語はそういう「肌感覚」で分かるのが、まだ全然ない。自分の思い出やそのときの感情がこびりついているフレーズや言葉はあるけど、自分の中からあふれ出してくると言うよりも、便利なステッカーを貼ってまわっているような気分。知識ゼロの状態から、生活に困らないレベルの言葉を身につけたくて始めたから、こういう感じなのかもしれない。文字よりも音。細かい単語や助詞レベルのニュアンスよりも、有用性。それか、広東語という「口語的」言語の柔軟さというか、自由さに翻弄されて、何もつかみ切れていないだけかもしれない。

今、日常生活でそんなに困ることはなくなって(まだまだ下手だけど、何とかなるという根拠のない自信がある)、だけど全然分かっている感じはなくて、次の段階に進もうとするときにつかまるものがなかったのだけれど、子供の学校と詩集『三日月』に新しい指針を教えてもらった感じだ。

もうすぐマイケルが米国出張から帰ってくる。やつはたぶん、たくさんの本をお土産に帰ってくるはず。はやく会いたいなあ。

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