海
西貢まで友人のSと行く。タクシーで行こうと言ったら、タクシーは怖いからウーバーで行こうと言われた。
最近自分が日々していることの多くを、怖がっている人がいることを発見している。香港タクシーにのること、街市(ウェットマーケットといわれる市場)で買い物をすること、ひとりで山に登ること。「ここに住んでいる人がふつうにやっていることは、ふつうにできるはず」というのがわたしの考え方で、ちょっと不安なときはあるけど、怖いとまで感じたことはないから、ちょっとびっくりする。
「香港タクシーは運転が荒くて、言葉が通じないから怖い」というのが彼女の言い分だったけど、ウーバーもじゅうぶん運転荒かったし、料金が割高だったよ。ただ、アプリで目的地を入力するため、直接言葉を交わさずとも利用できるのはそうかもしれない。わたしはすべてを広東語の練習だととらえてしまう傾向があり(それもどうかと思うけど)、会話のチャンス到来のたびに心の中でガッツポーズしている。
西貢は海も山もきれい。あいにくの曇り空だったけれど、海を見ながら、東北のことを思っていた。あの日のこと、ずっとずっと忘れない。
震災の三年後に訪れた被災地で出会った人たち、見たこと、聞かせてもらった話、ずっと忘れない。
もう亡くなった人もいるけど、あなたの言葉はずっと残っている。子供たちにも伝えていきます。
帰りは反対方向のミニバスに乗ってしまい、どこかよく分からないキャンプ場で降ろされ、よく分からない入場料を取られそうになったけど、同じバスを追いかけて元のバス停まで乗っけてもらう。田舎すぎて、バス停じゃないところで人が乗り降りする。「唔該、巴士站! (ん-ごごい、ばーしざむ)!」と言うと次のバス停でとまってくれるのだけど、アナウンスもないのでどこがどこのバス停なのかさっぱりわからない。毎度難易度が高いぞ、ミニバス! だけどここでも運転士さんがやさしくて、ちゃんと次はどのバスに乗るべきか、どこで降りるべきか教えてくれました。
そのあとSが昔働いていたカフェでランチをごちそうしてくれることになったのだけど、衝撃的なことを聞かされ、わたしは今、心を落ち着けるためにブログを書いています。はあ、心臓がばくばくしている。内容は書けないけれど、でも感じたのは、やっぱり「母親」って、外から見えるよりもずっと隠されているし、抑圧されているということ。
「母親」に付随するイメージの強力さってすごいよね。「母親だから我慢して当然、母親だからやって当然、母親だから、母親だから、自分のことはあとまわしにして、 母親だもの。」それが内面化されてどれだけ自分を削ってるのか分からなくなる。大事なものは差し出したくないけれど、大事なものが分からなくなるよ。
なんだか胸が張り裂けそうになっていたら、クィアカップルの友達から「親」になるという知らせのメールが来た。「マタニティ・リーブ」でも「パタニティ・リーブ」でもなく「ペアレンタル・リーブ」。その言葉のなかでの「リーブ(休暇)」が実践においてバイナリーの名前が付いた「休暇」とちがうのか、たぶん、ちがうと思うよ。かなり、違うと思うよ、
わたしはアイデンティティとして「母親」というのが強いから、「親」であることと「母親」であることのエッセンスを切り離せるのかよく分からない。
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